2010年10月のありがとう
環境対策のナイーブさ

 今、日本の二大環境問題の解はこう表現される。

一、温暖化対策 ≒ 低炭素社会の実現
二、生物多様性 ≒ 里山イニシアティブ

 全くナイーブな反応である。

 CO2削減について、本当に京都議定書が答えなのだろうか。Time to ditch Kyoto.京都議定書を去るべき時との声もある。
 温暖化で恐いのは、巨大豪雨による洪水とそれによる土砂災害であり、一方で渇水による被害である。
(そしてこの対策は、行政区画で発生するものでないのだから、水の流れによる流域単位で行われなければならない)

 生物多様性の取り組みも、牧歌的な里山を守ればという話ではない。
 私たちが食するお米は、里山ではなく東北、新潟など画一的な大農業地帯より供給されている。近代化された大規模農業があって、私たちはご飯を食べていられるのであって、里山を守ってもお米が十分に供給される訳ではない。

 つまり、温暖化に対する対策としての低炭素よりも、まず起こる具体的な災害に手を打つべきである。
 そして生物多様性を考えるにしても、国土として亜寒帯の北海道から亜熱帯の西表島、本州にしても沿岸部から中央部の高山、東京辺縁の小さな緑まで、多種多様である。
 世界的に考えても、氷河のなくなるヒマラヤ、熱帯雨林の破壊が進むアマゾン、ツンドラ地帯などに起こっている森林伐採等、とてもSATOYAMAイニシアティブでは解決しない。

 こうした問題解決策は、ひとつのデシジョン(決定)であるが、綜合的なジャッジメント(判断)ではない。
 デシジョンは、問題 → 限定された枠内でのソリューション → 意思決定、つまりビジネススクールでの知識と経験があれば最善を分析できる。
 しかし判断力というものは、問題のおかれている大きな環境を考慮し、タイムスケールを広く深くとり、周囲との関係性を理解できることこそを必須とするのである。
 一言で言うなら構造化能力である。
 言い換えると、問題の構造化能力に加えて、一見役にも立たない哲学・教養が、身体中に満ちていることが判断の基礎となるのである。

 世の中、断片的な知識は無尽蔵に近いくらい手に入る時代になった。
 が、それを位置づけ、個別のケースにあてはめ、パフォーマンスを出すには天と地以上の差がある。
 こうした思いを短い文章で表現した天才がいる。

『知的な愚者は物事をより大きく、より複雑にする。
 この逆方向に進むには、
 少しの創造的才能ととてつもない勇気が必要です。』

 アインシュタインである。
 私たちも物事をより小さく、よりシンプルに考え、新しい変化を加え、勇をもって進もう。
 今月もありがとう。

井上 健雄