エコロジー研究会
  本質を問う
滋賀県立大学 名誉教授 末石 富太郎 氏 
エコロジー研究会 基調講演より


 本質とは何か?学問というものも怪しい。40年以上大学の教授をしていて、千里リサイクルプラザの研究所所長もしたが、本当に長いこと大学に行って何をしていたのだろう?と思う。学問の本質というものは、教壇に立つ教授の権威付けへの支持率であると思っている。本質ということがどこにあるか。本質とはこれだ!と言っている人は嘘つきである。だから、今やっていることが、全部正しいとは言えない。長いスパンで見方を変えることが必要なのだ。

エコの語源は“オイコス”と言う。オイコスというのは、家のこと。だから、エコロジーは家の学問である。元々家の学問の原点は家政学である。家政学は女子大の非常に重要な学問だったのに、家政学で生徒が集まらなくなった為、生活科学という名前に変わった。しかし、私は家政学が生活科学に変わって、余計に悪くなったと思っている。

エコノミーも家の規範である。非常に大きな場所でエコロジーを生態学と訳し、エコノミーを経済学と訳すと、これらは対立している。家の中で考えた場合、エコビジネスというのは、エコを中心としたビジネスであるが、その場合、何もかも全部houseの中でインテグラルされていないとならないのである。

ビジネスという言葉が来た場合に、最近よくもてはやされているのが、MBA(Master of business Administration)だ。日本にほとんどないため、アメリカに行って経営の修士号を取ってくる。しかし、MBAを取ったら何でも出来ると思ったら、大間違いである。やはり経験が必要である。特に環境(エコ)の問題は大変難しいのでなおさらである。最近では、MOT(Management Of Technology)、business Administrationだけでは無理で、物を作り出すということをやらなければならない。

日本の国是は何か。「鉄は国家なり」という言葉があった。今は自動車が国家です。もしもリサイクルを国家なりということに使うなら、アメリカの面白い話がある。アメリカの政治を風刺しているのだが、自動車のポンコツが今のようにプラスチックなどが一杯入ってない時代の時に、自動車のポンコツが何台あるかによって、ドルを出せというように言ってました。それがなくなってしまったら、お金が回らない、ということになります。

同じような意味で、公害物質のリサイクル法が自動車や容器包装、非常に狭い分野でリサイクルが行われているが、家庭の取り組みをもっと参考にすべきであります。うちでも牛乳パックのリサイクルをしている。かみさんは、皿の残り水で中身を洗って、ガスの余熱で乾かしています(賢い!)。以前、二人でテレビを見ていたら、水道の水を出して牛乳パックを洗い、その水をカップに入れて沸かして紅茶のパックを入れ始めた。ミルクティの出来上がり。家庭では、そういうことを考えられる。その次どうするか、ということを考えたら、広がってくる。

しかし本当に牛乳パックはリサイクルしたほうがいいのだろうか。一日に牛乳は600万個売れる。その紙パックのためにどんどんカナダの森林から高さ7〜8メートルの樹木が伐採されていく。カナダの森林がどのくらいの面積があるか、そこで働いている人はどのくらいか、材木がどのくらいかと計算し出したら、ちょうどバランスがいいのだ。カナダの林業の人の仕事もあるということで、牛乳パックは必ずしもリサイクルしないで、燃やしてしまったほうがいいかもしれない。そういう考え方もここで出てくる。

同じような考え方がこの前、BSを見ていたらありましたのでご紹介します。私は本質で大事なのはココだなと思う。一番最初のSustainableについて言うと、UNESCOで議論された、どうやったら地球の環境問題が解けるかということを、当時の環境庁(現在は名古屋大学の教授をしてます)加藤博和という人が、環境科学会の機関紙に書いたのをここで引用する。

一つは技術楽観主義。何をやっても技術発展を促すことにより問題が解決するという考え方。こういう考え方のエコビジネスもあると思いますが、間違いなくコストは高くつく。株式市場を見ても、某会社が炭酸ガスの燃えカスを吸収する技術を開発したということが日経新聞に載っても、株式の動きに変化はない。株式市場が狂っているのかわかりませんが、これは問題だろう。また、同じ技術発展を促すことで問題を解決するやり方に調和型といって、サスティナブル(継続持続可能)という言葉を使った、開発と環境保全の両立を目指すものもある。

地域社会主義。こういうと社会主義の復活みたいに取られるが、そうではない。これは、適正技術とローカル資源に基づく小規模開発を是とするやり方で、この究極がエコビジネスだ。

もっと厳しいのがガイア主義。「地球は生き物だ。全部自然に従ってやりましょう」ということ。ドイツの緑の党はこういう考え方で、見方によっては、エコファシズムと言って、禁欲主義のようなものである。私の友人の中に、一切は肉は食べない、魚もほとんど食べない、野菜は自分の畑で作っている、という人がいるが、これはよっぽどの人だ。このような極端な自然中心主義。これは目的を重視しているが、このような人は、正直、目的がわからないのだと思う。このようなことは、形を整えて、形を実行する中で、目的を探して行こうという形で進んでいるから、大学を創るときでもなんでも、「環境」「環境」と騒ぐのは反対である。私も「環境」「環境」と言っていたほうだが、そろそろそのように騒ぐのも止めにしようかと思っている。

次に日本の弱さについて。日本のGDP450兆円。これに対して、建設関連産業もちょっと減ったが、90兆円。自動車関連産業も90兆円(注:ダブっている部分があるので、合計して180兆円とは考えないで下さい)。建築関連産業はGDPの2割を占めている。このような国はどこにもない。第2位がドイツで、7%。アメリカなどはもっと低い割合である。

イギリスに本拠地があるアースウォッチ(地球環境の研究をしている全世界の8万人の会員)が、市民レベルの会員が入ってないと研究をやらないと言っている。それが1年間で150億円使っている。これは、委員議員だけではできない。横につながらないとしょうがない。アメリカのボランティアグループが作り出しているお金はアメリカのGDPの9%。雇用の人数は11%なので、所得は少し低いことになるが立派なものです。日本はずっと悪い。WWFの日本の会員6万人だが、アメリカの会員は80万人、イギリスに50万人いる。このように、会員数の違いからもわかるように、日本の環境文化と称するものは、まだ底辺にある。

アマゾン川の流域に、エーダイ・ド・ブラジルという会社がある。7000haの森林を運営しているのだが、木と木の樹木の間で農業をしているのだ。タニカという木は30年すると直径が1メートルぐらいになる。これはまっすぐな木なので、皮をはいで、日本に持って帰っている。昔、原木を持って帰って日本で加工していたが、今では、現地で製材するようになった。7000haの森林とそこの森林農業によって、環境に取り組んでいる。30年から40年経って、古材を使ったあと、もう一度、紙用のチップとして変えることもできる。そこから、牛乳パックを作ってもいい。それを燃やしてサーマルリサイクルにしてもいい。このように30年ぐらいのロングスパンで森林を上手に使うということが必要である。

これは本質に近いと思う。大阪が排出している炭酸ガスを大阪の森林に吸収させても10分の1もできない。いきなり、地球環境問題として大阪の炭酸ガスをどうこうするというのではなく、東南アジア、近隣の諸国と徐々にネットワークを広げていくということが大事なのだろう。


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